蒲生校長より

株式会社 エム・ビー・エー発行 ニュースレター 編集後記より抜粋


Vol.27  ニュースレター2005 AUGUST/立葵号

 関東地方は、一部の地域のような大雨の被害もないまま梅雨も去り 本格的な夏が到来しました。
暑中お見舞い申し上げます。
 あちこちで、真夏の夜空を彩る夏の風物詩 『花火』 の便りがきかれる季節となりました。 通勤の途中でも、鮮やかな浴衣姿の人々を数多く見かけるようになりました。
 私が花火の美しさに魅せられるようになったのは、父が第二の職場である新潟県長岡市の会社に赴任してからです。 上越新幹線で1時間半、以前住みやすい人気の地方都市にも選ばれたことのある、素敵な町です。 車でも関越自動車道からすぐ、又、日本海側にも大した時間もかからず行けるので、夏休みを過ごすには最高の場所でした。
長岡の花火は、皆様もご存知だと思いますが、日本一の大河信濃川を舞台に繰り広げられる、日本一の規模を誇る花火大会なのです。 平成元年から7回の夏を長岡の花火とともに過ごしました。 二時間にも及ぶ夢の饗宴は、会社の宣伝仲間同士の記念行事、家族のお祝いなど、皆の協賛から成り立っています。 予算、目的に応じて、自分の好きな花火を打ち上げてもらうこともできます。
日本唯一といわれる正三尺玉花火、これは600mの上空で地の底から湧きあがるような音と地響きとともに、 直径650mもの大輪の花をさかせるもの、その迫力は表現できないほどです。 ナイアガラスターマイン、これは信濃川に架かる長生橋と大手大橋の両橋に仕掛けられる花火、 延長650mに及ぶ大瀑布があたかもナイアガラの滝のように川面に流れ落ちる様は圧巻です。 さらに数々の技術の粋を集めたスターマインの打ち上げ花火、毎年、必ず新しい色と複雑な形が生まれ、 花火職人の方の代々受け継がれた技と最新の技の集大成です。 それを、河川敷のマス席から冷たいビールとお弁当をいただきながら鑑賞する・・・。 これが、当時の我が家の夏の最大のイベントでした。
 皆様は、夏のお休みいかが過ごされますか。厳しい暑さがしばらく続きますが充分ご自愛ください。
   


Vol.26  ニュースレター2005 MARCH/雛月号

 ひな祭りも終わり、桜前線とともに訪れる春が待ち遠しい季節となりました。花の好みも変わるもので、最近は年のせいかどんな花より桜の花にとても愛着を覚えるようになりました。皆様は、一番桜の別名をもつ『啓翁桜』をご存知ですか。
一番寒さの厳しい1月から2月にもかかわらず、花屋さんの店先で、早春を皆に告げるかのように可憐にたたずんでいます。
うれしくなって、会社のそばの花屋さんから一枝買い求め、満員電車に揺られながら自宅に持ち帰りました。つぼみが開花すると、うす紅色の通常より小ぶりの花がびっしり咲きそろって、明るい華やかな気持ちにさせてくれます。昭和5年に久留米市のとある人が、中国系のミザクラを台木にして、ヒガンザクラを接いだところ、穂木として使ったヒガンザクラからその枝変わりとしてできたものだそうです。それを、山形県園芸試験場で開発された技術で、全国に先駆けて春を連れてくることに成功しました。
2月のはじめから現在に至るまで、我が家の真中で皆を楽しませてくれています。
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Vol.25  ニュースレター2004 NOV/神楽月

 ワインは、私の最も好きなお酒のひとつです(もっとも特別なことがない限り家ではハウスワインですが)。
学生時代に、私の田舎(宮城県岩沼市)とカリフォルニア州ナパ市がJALの訓練所の取り持つ縁で姉妹都市になった関係で、その親善使節に加わったことがあります。
ナパバレーの見渡す限りどこまでも続くぶどう畑の美しい景色は今でも目にやきついています。
ワイナリーでいろいろ試飲もしました。 今では、カリフォルニアワインといえばナパワインですが、その中でも名門のワイナリーモンダビと、仏ワインボルドーのロートシルトが、見事にコラボレートしたワインがあのOPUS-ONEとよばれる逸品です。
先日友人宅でラッキーにもいただくチャンスがありました。 ドイツのリーデル社の足の長い大きなワイングラスに注がれたOPUS-ONEは光り輝いていて、一瞬現実を忘れさせてくれました。
 又、別の友人は、ワイン好きが高じてワインエキスパートの資格を取得しました。 プロ対象の資格ソムリエ・ワインアドバイザーに匹敵する一般の人対象の資格です。 それと、仏語を武器にワイン商社に再就職してしまいました。
 『好きこそ物の上手なれ』『芸は身をたすく』と昔の人はよく言ったものです。
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Vol.21  ニュースレター2002 神楽月/秋色号

 9年前、中国青少年発展基金協会からユネスコ北京事務所を通じて、北京日本人国大使館附属日本人学校のPTAへ、日中友好20周年記念事業の一環として、貧困地域に日本でいう幼稚園から中学生対象の学校を建設するため、300万円の寄付の要請があった。

 中国での中国人とのビジネスのむずかしさを痛感している駐在員として一線で働く生徒達の父親も含めて、PTAの間でも意見が分かれた。おりからのバブル崩壊後の不況の影響もあり、募金活動は難航した。その時、グローバルスタンダードという観点から、同じコンセンサスを持ってビジネスできる人間を育てるためには教育が根本にあり、少しでも余力があるのなら力を貸すべきではないかとこのプロジェクトを推進したのが、当時PTA副会長であり中学生の娘を持つ母親でもある私の友人だった。

 目標額まであと100万円というところで、たまたま俳優の杉良太郎さんがモンゴルの奥地からの帰りに北京に立ち寄り、(彼は毎年T億円ずつ世界の恵まれない地域のボランティア活動に寄付してもう30年になるそうだ)差額を出してくださったそうだ。

 このような経緯で北京から万里の長城を越え、車で6-7時間北東に位置する河北省豊寧県に豊寧希望小学校が完成した。そのことを彼女が故郷福岡県の高校の恩師に、季節の便りに書いた所、先生が感銘を受け、福岡県内の教育者・個人事業主・お坊さん等有識者の人々に呼びかけ、賛同者の支援の輪が広がってその後も次々と学校が建設された。現在、福岡県では正式に、有志の会が発足している。

 来年の創立10周年記念事業に向けて、恩師に促されて9年目にしてはじめて、彼女は今夏現地へ赴き、4つの学校を訪問し、熱烈な歓迎と心温まる歓待を受けた。自分の目で自分の活動の産物を見てきた。当初90%がとうもろこし畑の農業を営み、石炭と木炭で火をおこし、井戸で水を汲み、電気がかろうじてついたり消えたりする極貧地帯が、学校ができることにより、そこを中心に市場ができ交通が整い町ができだいぶ発展した。各学校では、現地のスタッフと今後どういう支援をすべきかが話し合われ、生徒と面接をして奨学生を選考する。日本円で1万円あれば、一人の生徒を卒業させることができるそうだ。そして、カレーライスと甘いだしまき卵を食べさせたいという恩師達たっての希望で、学校の生徒達・先生方・生徒の親達のために、彼女は200個の卵で卵焼きを作ったそうだ。

 子供達の素朴で愛らしい顔が忘れられない、心の洗濯をした感動的な旅だったと・・・ 久しぶりにいい話を聞いた私も幸せな気持ちになりました。

 勤勉さは中国人に、頭の良さはインド人に、お株を奪われてしまったけれども、私達日本人が長い間かけてアジア各地に蒔いてきた小さな種は、現在確実に大輪の花を咲かせています。
                                 


Vol.20  ニュースレター2002 新春/曙号

 馬齢を重ねることはや○○年、またしても私の干支が回ってきました。
午年馬れの馬れながらのじゃじゃ馬で、都合の悪いことは全て馬耳東風、 ストレスは決してためず、牛飲馬食と言われてもものともせず、馬の合う仲間とコミュニケーションに励み、馬子にも衣装でフルメイク、馬り馬りきめて、 馬す馬す女っぷりをUPし(?)、持ち前の馬力で、この1年も駄馬と言われぬよう、駿馬のごとく駆け抜けます。
本年もよろしくお願い致します。新年早々大変失礼致しました
                                        

Vol.7  ニュースレター1996 聖夜/木枯らし号

 11月下旬に(1996年)、エチオピア航空機が乗っ取られ、インド洋の島国コモロ沿岸に緊急着水しようとして失敗、墜落した事件がありましたが、皆様も日本人の生存者がいたという報道を通じて、まだ記憶に新しい事と思います。
私の近隣の方(アメリカ人の男性)がこの事件に遭遇して、九死に一生を得ました。
間接的に聞いた話ですが、その方は、前方左側の座席にいて、機体が左に傾いて墜落した関係で、左足を付け根から脱臼したそうです。
機外に脱出しようとしたら、隣席のインド人の女性に『Don't leave me!』と懇願されたそうです。
 海水は、腰がつかる位まで浸入していて、片足を挟まれて足首から下を切断されていたその女性を背負って、必死に泳いで島にたどり着いて助かったそうです。
勿論、Life Vest(救命胴衣)を身につけてはいましたが、彼の勇気と生命力には心より敬服しました。

 この緊急時に身につける Life Vest の使用方法が、生死の明暗を分ける事になろうとは、誰も予想だにしなかったと思います。
言い換えれば、Life Vest にいつ空気を入れて膨らますのかが、重要なポイントだということです。
海に沈んで再び浮き上がって青空を見たら、紐を引っ張り空気を入れるのが鉄則だそうです。
つまり、機内で Life Vest に空気を入れてしまい、海水が浸入して天井まで一杯になっても、沈むことが出来ないので機外に脱出する事が出来ずに溺死してしまった人がかなりいたそうです。
その時点では、想像を絶するパニック状態でしょうから、皆、助かりたい一心で、溺れる恐怖から逃れようと、無我夢中で空気を入れてしまって当然ですが、それが、命取りになってしまったそうです。
『一度沈んでも絶対浮かび上がるので、その時機外にいる自分を確認してから空気を入れていればもっとたくさんの人々が助かったのに・・・。』彼と国際電話で話した友人が、語ってくれました。
現在も、マダガスカルの東に位置するレユニオン島の病院で入院中だそうですが、一日も早い回復を陰ながらお祈りしている次第です。

 このような事故に遭遇すること自体、確率的には非常に低く、全く予期できない不可避な事ですが、いつ・どこで、事件・事故等あらゆる災難に巻き込まれないとも限りません。
この話を通じて、窮地に立ったときに以下に冷静沈着さを失わずに、的確な判断を下し、対処する事が大切か、その必要性を痛切に感じました。
又、たとえ1%の可能性でも信じて、最後まで決して望みを捨ててはいけないという事も実感しました。
                                         

Vol.6  ニュースレター1996 初秋/涼風号

 首都圏で39℃を記録した猛暑のある日、車で、国道18号線から、ラガーマンのメッカである菅平高原を抜けて長野県上高井郡小布施町へ向かっていました。
菅平から小布施に抜けるこの道は、以前は石がごろごろした土煙の立つ山道でしたが、現在では、きれいに舗装され整備された走りやすい道になっていました。
小布施に近づくと、道の両側には、袋をかぶったりんごの木・ぶどう棚・桃色に輝くももの木が一面に広がり、思わず途中で、ぶどう狩りに興じました。
 今日は、なんと14年ぶりに、小布施で栗おこわ・栗あんしるこ・栗みぞれ(かき氷)を味わう日帰りツアー(あくまでも個人的なもの)が復活した記念すべき日なのです。
久しぶりに味わった栗づくしは、勿論、以前にも増して格別なものでした。その後、北斎館にも立ち寄り、貴重なひと時を過ごしました。 小布施は、栗の産地としてばかりでなく、葛飾北斎(当時83歳)が天保13年(1847年)に訪れ、アトリエを用意してもらった高い鴻山(当時37歳)のもとで、逗留生活を楽しんだゆかりの地としても有名です。

 帰り道に、ウン十年ぶりに菅平の斜面にたたずみました。大学一年の時に、訪れて以来のことです。私の所属していたのは、ラグビー部ではなく、リコーダーアンサンブル同好会。
斜面に座って友人たちと奏でたリコーダーの音色が忘れられません。
今回、この斜面は、私には花畑として映りました。かわらなでしこ・われもこう・やなぎたで・おみなえし・のかんぞう・つりがねにんんじん・むらさきつめくさ・まつむしそう・どくぜり・つるふじばかま.....etc.
若いころ、全く気付かなかった野に咲く花は、どれも可憐で、控えめで素敵でした。私は、我を忘れて夢中になり、花摘みおばさんと化しました。

 家に戻り、花器に、自分流に生けて飾ってみました。心が洗われるような安らかな気持ちになり、ほんのひととき自分だけの世界を満喫しました。
来年は、押し花にして額に飾ってみたいなどと、今までの自分では考えられないような夢がふくらみました。

                                                      

Vol.4  ニュースレター1995 師走/山茶花号

 今年(1995年)も何人かのスポーツ選手が話題を独占しました。
昔から「巨人・大鵬・玉子焼」という言葉が有りますが、皆様は如何ですか。 年齢がわかってしまいそうなこの言葉ですが、私はへそ曲がりの子供でしたので、玉子焼はともかく、アンチ巨人、柏戸派でした。 この性格は、年齢と共に益々磨きがかかり、Jリーグチャンピオン3連覇を狙うヴェルディを阻止すべく、戦うトリコロールの騎士(マリノス)を応援しに、温かいお茶と釜飯、ホカロンと毛布を持って国立競技場に行って来ました。 サポーターが6ヶ月もかかって考えたという紙吹雪やフラッグの中で、優勝の喜びに酔いしれました。

                                                     

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